ここ数日は「一日17時間寝ていた」あの頃のような気持ちの沈みや身体の気怠さがあって、作業をほとんど進めないまま小説を読んでいる。
小説の感想は気が向いたら。
悪いことを書こう。
今日は、国立国際美術館へ行き、「コレクション1 80/90/00/10」を鑑賞した。
運よく無料で入れる日で、さまざまな人が来館していたのだが、私は結構そういう別の客を気にしてしまうタイプだ。
カップルで鑑賞しに来ている人々を見ると、どうしてもその会話に耳をそばだててしまう。
ある二人は、一人はスマートフォンで写真を撮り、一人は「かわいい~」とだけ言っている。どちらもそこまで美術鑑賞には関心がなさそう。
またある二人は、一人がもう一人へ作品の背景を説明する。その人は一眼レフカメラを持っている。
はたまたある二人は、なんとなく感想を述べあっている。
ここで、私は強く「美術作品のことはよくわからないけれどもデートでとりあえず来たカップル」にもなりたくないし、ましてや「何もわからないけれど男になんとなくついてきた女」にもなりたくない、とおもう。
「美術作品をどう鑑賞すればよいかいまいちわかっていない私」が外にバレるのも嫌だし、そのくせ作品を鑑賞しに来た動機が「男」だと思われるのはもっと嫌だ。
それが「頭がからっぽな女」という表象とも重なるような感じがして、自分がそういう偏見に満ちた「女」像に押し込められるのがどうにも耐えられない。
一人で見て回れば、何も発言しなくてよい上に、純粋に作品を見に来たのだということが明らかなので、(悪い言い方をすれば)カップルで来ている人々を下に見ながら自分を持ち上げて鑑賞している。
結局は、いわゆる「カップル」(ここでは「男女二人組」を意味している)、特に大学生ぐらいの若いカップルは美術作品になんて興味ないのだろう、という偏見と、「女」には何もわかんないだろう、という偏見を私が抱えていて、自分にその視線が跳ね返っているのだった。
だから、おそらく私に男性の交際者ができたとして、一緒に美術館に行くことはかなり耐えられない行為になるだろう。
少なくとも、何も話すことはできない。
2人で何か見当違いな感想を言い合えば、無知で愚かなカップルなのだと思われてしまうし、交際者が何か高説を垂れれば、私は博識な男についてきた馬鹿な女になってしまう。
明らかに自分の首を自分で締めてしまっているが、だから私はずっと一人で美術館に行くのだろう。
早く偏見を解いた方が良い。
さて、もう一つ悪いことを言いたい。
美術館には親子もいる。小さな子供を連れて会場内を回っている。
たまに以下のような状況を目にする。
子どもが、作品やキャプションに書かれた言葉に関して突飛な質問をする。
親はそれに答えられない。
その光景を見るたびに、私は、自分はよく美術作品などわからないのだけれど、子供には英才教育を受けさせたいのでとりあえず美術館に来てみた親、なのだとおもってしまう。
自分で知識を身に着けて教えようというわけでもなく、とりあえず美術館にでもきておけば何かいいんじゃないか、という考えが透けてみえる。
これも本当によくない偏見だ。
だが、どうにも私は「母親」というものを少し悪く思っているらしい。
最近ふと、「母親にならないこと」だけを、「生活」へと落ちていかない最後の砦にしていることに気づいた。
母親になってしまってはもう、私は健康すぎてしまう。
嫌ってきた健康的で生活に没入し人生を全うする人間になってしまう。
最近は随分と「普通の生活」に対する逆張り意識が薄れてきたと思っていたのだが、私は自分が「母親」ではなく、そして今後も「母親」になる気がないことだけを特異点として生きているようだった。
愚かだ。
久しぶりに自意識とベタな逆張りの話をした。
私は徐々に自分がならないと思っていたものになっていっている。
「母親」になったとき、そのときがリミットだとおもっているわけだけれども、「母親」になったあとにも自分を保っていられるようなものを、最終的にはならないにしても、持ち合わせておくべきだ。
森三中の黒沢かずこが、生活には生活の面白さがあって、それが大事なんですよ、という風なことを言っていたことを思いだす。
それを聞いた時に、私は「私も最近それに気づいたよ!」と思ったわけだが、まだまだ根深く残っているようだった。