生活だけでよかったのに、あたしは。
あたしは、生活をやるだけでよくて、生活だけで幸せになれる人だ。
「わたし」と打った後に「あたし」と打ち直す。そういう気分の日もある。
「できれば」楽しいのだろうと思うことが多々ある。
「楽しい」までに、蓄積すべき努力があって、その過程を楽しめる人か、あるいはそもそも才能があってすぐに「楽しい」ほどに「できる」人は、その「楽しい」に行き着ける。
あたしはいつもたどり着けない。
生活をやるだけで良いと思っているのに、その「生活」の「楽しさ」が「できる」かどうかにかかっているときがある。
だから結局、あたしはできないから楽しくないままなのだ。
さて、もちろんこれは偽の問題であって、逃げ方は二つある。
一つ目は、できなくとも「楽しい」をつまみぐいしていいのだということ。
外国語を習得する努力をすっ飛ばして外国に行って良いのだし、車をうまく運転できなくともドライブでどこか遠くへいってよい。
泳ぎを身につけるには水にとりあえず入らねばならない。
二つ目は、「できない」は「できる」に変わるのだということ。
もちろん。苦しくとも努力すればいいだけの話だ。
いや、苦しくないぐらいの強度でもある程度続けていれば変容している。
自炊をはじめて1年半ほどになるが、ある程度自分で調理ができるようになった。
料理上手な人を見ると、私はまだまだだと思うが、生活が「楽しい」ぐらいにはできる。
二つに分けたけれども、同じことを言っているな。
やる、とりあえずやる、そしたら身体化される、みたいなことを最近は信じて生きている。信じないと生きていけない、というわけでもある。
あたしは生活をやるだけでよい、と決めてからいくぶんか諦めがつくようになった。
いくぶんか諦めがつくぶん、だらだら努力できるようにもなった。
映画を見て表現されていることを理解したいし、そういう「楽しい」のためには努力したいけれども、映画をみて語れるほどにはならなくていいや、みたいなそういう感じ。
具体例が遅くなってすみません。
「最初から私は~」と書こうとして、やめる。一貫性を持たせようとすると嘘が混ざる。最初からはそういう人間ではなかった。
苦しいほどに頑張らねばならないようなことは全部来世に持ち越し。
今世の私をネグレクトしてはならない。今世の私をもっと見てあげなければならない。
【最近の趣味のコーナー】
〇電気グルーヴを聴いています。
「私が電気グルーヴ聴いてたら面白いな」と思うことが度々あって、今回もその周期が来たのでなんとなく流しています。
普通に結構好きです、電気グルーヴ。
〇昨日、映画『バービー』を見ました。
〇オダウエダのYouTubeにはまりかけています。オダウエダおもしれ~~。私はずっと植田さんみたいになりたいと思ってます。憧れの人:オダウエダ植田