なんかの夢

日記ニキ

24.03.15 美術館巡り☀️モネ・福田平八郎・身体

気候がよくあたたかい日。よい日。

できる限りスマホを見ないでリフレッシュすることを目標にする。

二つの展示を回って帰ってくる予定である。

 

11:00

遅めの起床。だが、体調はあまり悪くなく。昨日から続く喉痛は良くなってきているがまだ残っている。

 

11:40

身支度をして家を出る。

 

11:49 

目の前で電車が行ってしまう。スマホを見ずにのんびり歩くことを意識していたばっかりに。

ここで気を立たせてはこれまでと同じなので今日は「穏やか」に。10分後の次の便を待つ。

 

11:57

ふと鞄を見ていると財布を家に忘れていることに気づく。最悪。取りに帰る。穏やかに。穏やかに。穏やかに。。

スマートフォンで現金下ろせるべきだ時代錯誤だコンプラ違反だ。

 

12:19

家に帰った時にもまた別のトラブルに見舞われ鍵が開かずに悪戦苦闘したが、なんとか財布を回収し電車に乗り込む。

最初に予定していたより30分遅れ。

「だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし」

宇都宮敦さんの歌。歌集よみたい。

 

12:34

電車に乗っていると、少し香ばしい匂いがして、横に大鶴肥満のような人が乗っているのに気づく。大鶴肥満だろうかと思ってドキドキしながら、チラリと見たら別人だった。まーちゃんごめんね。

 

移動中に『プリンセスメゾン』の1巻を読む。「家」に着目するという視点が俊逸で、確かに居住地っていろんなものが反映されているな、とおもう。

 

 

12:52

阪急の大阪梅田駅構内にあるつけ麺屋さん「麺屋たけ井」へ行く。

ここ2年はJRを利用していたので久しぶり、たのしみ。

量が多い印象は元からあったが、麺の量が並盛りで400gあるらしい。

ふと、二郎系でしっかり300g食べたいと思っていたことを思い出す。そのために胃を拡張させていた。200gに減らして食べるたびに、弱さを身体がもつ性別を突きつけられている感覚があったから。3月中に300gに挑戦しに行く。

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食べながら、なんで量が少ないことが「女性」を象徴しているんだ、とおもう。性別に関係なく選択肢が多いことはよいことだ。それを「レディースセット」と名づける人がわるい。

 

ペロリと食べる。出汁で割って飲み干す。うまかった。

 

13:06-

梅田駅から歩いて中之島美術館へと向かう。30分ほどかかる。

なんとなく歩いた証拠に写真を撮った。きんつば屋さんのフォントがかわいい。

ビル群のガラスに映る私をつい目で追ってしまう。呆れる。自分のことが好きすぎて。

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13:40-15:10 モネ展を見る。

中之島美術館に到着する。

噂に聞いていた通り盛況だったが、想像していたほどではなく、スムーズに入場してみることができた。とはいえ、一つ一つの作品に列をなしている。

 

今更、私が言うことではないのだけれど、モネって本当に絵がうまくって驚いた。

近くで見ると絵でしかないんだけれど、ふと振り返って今さっきの絵を見ると、写真のようで驚く。

写真は、景色を極小のピクセルへと分解したのち、それらを集合させて、景色を再構成するのだけれども、モネはそれを己でやっている感じだと思った。

印象派」といえば、「写実よりも印象を」のイメージだったが、「not only 写実 but also 印象」だった。

 

印象的だったのは、1890年代ごろによく使われているパステルっぽい色調。

(サーモンピンクで空を塗った中3の私のことさえ思い出してしまうね)

1882年ごろは、結構パキパキした濃いめの色合いで描いているように思えたし、睡蓮もむしろ沼を描いた緑と黒、そして濃い紫のイメージが強かったので、なるほどこういう色も使うのか、と思った。

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モネといえば睡蓮ですが、今回の展示でも睡蓮コーナーが設けられていて、一気にいろんな睡蓮が見れます(展示自体の主眼が「連作」にあるのも相まって)。

私はこの睡蓮が一番好きでした。これ、画面全体が水面なんですよね、すごい。

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15:20-16:10 福田平八郎展を見る。

少し休憩して、中之島美術館でモネと並行して開催されていた福田平八郎展も見に行く。

チラシに載っていた数点の絵が結構好きで、結構好きっぽくない?と思って見に行く。

 

鯉、竹、朝顔、牡丹、鶴など、日本画でよく見かけるモチーフを写実的に描く(うまい!)部分もありつつ、羊だとか茄子だとか蛤だとかの日常的な主題も描いているのが印象的だった。

明らかに徐々に具体から抽象へ、写実から造形の誇張へ、向かっているのが面白かった。

 

これが初期

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猫がかわいい

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これは中期?かなり幾何学的で造形へのフェティッシュが出てきている。

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これが末期

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一貫して絵に独特のチャーミングさコミカルさがあって、この人の掛け軸欲しいしグッズも欲しいなと思った。

動物が魅力的。

スズメがかわいい絵のポストカードを買って帰った。

 

 

ロッカーを開けるとゴトッと音がして「大丈夫ですか」と声をかけたらあたしの麦茶、だった。恥ずかしい。「大丈夫ですか、とか言っちゃいました」と言ったら、「大丈夫ですか」と声をかけた先の人も笑ってくれた。

 

 

16:28

セブンイレブンでカフェオレを買って、ファミリーマートで買っていた「白生コッペパン」を食べる。

「しともちぃ」という表現に違わず、一口目から「しともちぃ」で感動した。

これは人に勧めたくなる。

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16:49-17:26 「身体---身体」を見る。

国立国際美術館で行われている「身体---身体」展を見る。

初っ端から、ルイーズ・ブルジョワの作品がおいてあり、『美術のトラちゃん』を読んだばっかりの私は「あの蜘蛛の人だ!」と感動する。

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女性作家を集めたチャプターや「身体という領土」と題したチャプターがあり、大変よかった。

 

1時間もかからず見れる割に、今見たいと思っていた人たちの作品がたくさん見れて大満足。

 

塩田千春さんの個展楽しみだなァ。

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鷹野隆大さんの作品が一番グッときて好きだった。

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男性が「女性のように」横たわり流線の美がジェンダーレスだと伝えてくれる。

 

 

ミュージアムショップを冷かしてから、立ち去る。

 

友人から飲みの誘いがあって、天満へ移動。

結局、展覧会を3つ回ることができた。

1時間前後で回れるのは良い。最初こそバタバタしていたが良い一日だった。

 

 

18:20

天満駅前に立っていると、何かを食べているおじさんが近づいてきて、私の真横で立ち止まったので、静かに別の方向へと移動する。

クマに遭遇した時と同じ仕方で。

本当にこういう危険に晒されていたくないね。

 

 

18:49

相手がまだ来ないので一人で居酒屋に入る。「昭和レトロ」を気取った「コンサルが入った」(という言い方をこの前友人がしていて笑った)店かなと思っていたが、店員さんはベテランの良いおじさんという感じで、こういう店で中身がしっかりしてることあんだ、と少し驚いた。

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夜はふけゆく。

 

 

 

 

24.01.31 😡

サーヤから教えてもらった音楽聴いて漫画読んで小説読んで映画見て、定期的に飲み行ってて、飲んだらかなり距離近いのに、浮気疑ったらセックスしてないしただの友達って言われるところまで想像できる。

 

サーヤ的な人間を好きな男(特定のモデルはいない)に対する怒りを募らせていたら日中が終わった。

そういう男は、恋人に対して自分の意見をほとんど言わず、型にはまった「女性への振る舞い」でうまくやったと思い、恋人の参加していない飲み会で「女ってわがままだよな笑」とか言っている。

 

ムカつく。

 

 

バカな女になりたくない、それだけが私を本を読むこと、映画を見ること、考えること、に駆り立てている。

ふざけないでほしい、とおもう。

「普通」の男はバカではないのに、「普通」の女はバカだと思われて、それに対抗するには「男と対等」の知性を持たなければならない?

なんだ、それ、ふざけんな、ムカつく。

 

『哀れなるものたち』を見た。

幼児ほどの脳(精神)年齢であるベラに対して、当たり前に恋愛感情を抱く男たちが全員気持ち悪い。

マックス、お前もだよ。

 

バカな女になりたくないのは私だけで、

お前らは私がバカでもバカでなくてもどうでもよくて、いやどちらかといえばバカであってほしいとおもっている。

無意識的に、バカな方が「かわいい」とおもっている。

 

嫌な話だなぁ、まったく!

 

この前ムカついていた時に書いた文章も載せておこう。

 

大学・大学院生時代を振り返って、強くおもうのは私は「女」をやったのだということ、男社会である研究室の中であらゆる意味で「女」をやったのだということだ。

人をケアし、欲望の対象となり、力を見せ合うための駒となり、日常を担い、議論の場面ではにこやかな傍観者として過ごした。

そのことは、すべてのあなたたちへの憎しみであって、自らの不甲斐なさであって、やっぱりそれはヒステリックな「女」の言葉でしかないだろうか。

自分の努力不足を「女」に回収してしまうような言いがかりでしかないだろうか。

 

「女」をやった。

「女」をやめるには、男たちが話していることを知らなければならないし、男たちが語っている言語で語れなければならない。

 

同じところで同じように泣くのを繰り返している。

あきらかに推論が誤っている。先入観を取り除かなければならない。

 

あ~~~でも、ぜんぶムカつく!

 

 

才能や知性でもって男社会に溶け込める女性が何よりも羨ましかった。

私は、ただ男になりたかった、だけなのかもしれない。

 

それにしては学ぶことに対する意欲があまりなくて、私はなりたいものにはなれなかった。

 

でも、全てがやっぱり間違っている。「バカな女」だと思わされている、男社会に参入することを目指させられている。

慎重に診断していかなければならない。

 

 

 

 

 

 

24.01.28 焦る

毎日が簡単に過ぎ去っていってしまって焦る。

なにもしていない。なにもしていないので焦る。

 

日々記録をつけることで気持ちを落ち着かせる。規律。リズミカル人生。

スプレッドシートでやったことなどを記録することにした。

 

時間があるのだから、だらだらとやっていいけれども、やっぱり私は常に効率もタイパも悪くて、悲しいね。

 

今日も2冊漫画を読んでいたら一日が終わった。

 

レジュメと引っ越し。まだまだ気は抜けない。

 

 

24.01.13 24

昨日、24歳になった。

 

【24歳の抱負】

1. いろんな人に会う。

2. 気持ちを安定させる。

 

1. いろんな人に会う。

会いたい会いたいと言いながら、会わずに私の中で神格化していくのはもうおしまいで、会いたい人にはスパッと会っていく。

交友関係の狭さに常に悩まされていて、徐々に広げてこれたとは思うのだけれど、ある種強迫的な部分もあり、もうちょっとゆるやかに自分に合った形で縁を維持していきたい。

やはり根っこのところで、多くの人と常時かかわれるようなタイプではなくて、一人の時間も大事にしたいし、大切にしたい人たちにリソースを割きたいとも思う。

軽やかに人間関係を取り結んだり離したりすることは私にはできなくて、一人一人に重たく接しているけれど、それは変わらないところで、でも、さまざまな人とゆるやかに取り結んだままでいることは私にも可能だと思う。

あなたたちのことを思って生きていて、あなたたちも私のことをふと思い出してほしい。

具体化される。「いろんな人とゆるやかにつながる」が抱負かもしれない。

その第一歩として、私からあなたへ向かった矢印を明示化するために会う。

 

交友関係を広げたいという強迫は、基本的に好きな人が私以外のコミュニティをもっていることへの嫉妬で駆動されているので、あまりヘルシーではない。

できる限り切り分けながら、嫉妬の裏返しを他人に向けるのではなく、純粋に「会いたい」という気持ちを他人に向ける。

 

 

2. 気持ちを安定させる。

この中には「他人に不機嫌をぶつけない」という下位の抱負がある。

「不機嫌でいるな」という要請は、何か自己管理を要請する規律権力的なエトセトラを感じさせるのであまり従いたくないのだが、一方で24歳にもなって不機嫌を外にだして人を困らせている場合ではないだろうとも思う。

不機嫌で嫌われたくないからね。でも、普段から上機嫌でいたいとも思わない。嫌な時はすっぱりと嫌という。社会人になるにあたっても、大事にしていきたい。

 

気持ちの波が激しい人は「低め安定」がスタンダードらしい。

たとえば、私の中で人に会おうとして連絡をしてしまうのは、だいぶハイっぽい。

ハイではない形で人に会ったり物事を欲求したりする。

活動を後押しするものとしてハイの状態に頼らずに、「低め」で、かつ活動することを意識していきたい。

気持ちの安定を第一に考えてみる。気持ちがぶれてもいいから、と言って選択してきたが単にただ苦しいだけだったように思う。

今年だけでも実験で、気持ちの安定を最優先にやってみる。

それであまりに面白くない生活だったら再考しよう。

 

 

よい24歳になりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24.01.02 わからない

 

日中、発作のように鬱屈してしまい、ここ最近でも特段ひどく暴れた。

泣いて叫んで叩いて泣いて。物を投げたり自分を投げたり。苦しい、とにかく中にあるむずむずしたそれを外に出したい、苦しい。

 

それを誰も知らないだなんて耐えらない、転じて。誰かがあなたが鬱であったことを知っているよ、と言ってくれるだけで心がやすまる。

 

私は常に何もわからなくて、なぜかいつもみんなが代弁してくれて、わかっている側に置かれた。あるいは、わかっているふりがうまかった。

私のことを誰もわかってくれない、というよりむしろ、言葉は私の手を離れて好ましいように解釈されていくという普遍的な事象、なのかもしれない。

 

書くことや話すことに得手不得手があり精度があると気づいては、叫ぶことでしか、叫ぶことでしか。

 

「あぁ、語彙力をつけたい、というのは今年の目標かもしれません。」

 

 

いやだいやだいやだ、いやだいやだいやだ。いやだよ、どうしよう。ねぇ、どうしたらいいんだろう。わかんない。

 

深呼吸。

 

まるで、まだ私は普通に生きているかのように扱われるとムカついてしまう。

もうあなたたちみたいには生きていないんだよ。私は、私は、ただ毎日を生きるだけを精一杯やっていて、あなたたちみたいに、あなたたちみたいに、目標もなければ成果もなければ生き甲斐も楽しいことも何も何もなくって、何もないけど、どうにか生きてんのに、、どうにか生きる以外のことをできて幸せでしょうね。と、ルサンチマン。飼い慣らせなかった。

 

どこから健やかになればよかったのか、どこからでも健やかになれるはずだ、これからでも。

これからでも、幸せになれる、これからでも、健やかになれる、これからでも、さまざまなことをやり続けていけばよく、できるようになることもきっとあるはずで。

 

 

 

 

気分を安定させてください、と初詣で祈って、2日でこうではわけないよ。

 

自分のこと以外に早く気持ちが向くようになりたい。

 

当該地域の方の被害が少なくありますように。ご無事でありますように。

 

 

23.12.31 口内炎

いつだったかシャワーヘッドを口元にぶつけてしまい、時間差で口内炎ができた。

今、唇に大きな口内炎を抱えながら2023年を終えようとしている。

 

2020年は終わるけど、私の人生は終わらないから。

と3年前の私は言い訳をして、総括を書いた記事を公開しなかった。

どことなくその年の総括をするのは恥ずかしいことのように思えて、年末ぎりぎりになると結局書かないのだけれども、今後の私のためにも簡単に記しておきたい。

 

今年の目標は「習慣の再構築」だったわけだが、なんであんなにもあの頃「習慣化」が大事だと思っていたのかを思い出せない、と書いたところで思い出した。

そして、1年間で私は「習慣の再構築」がどうでもよくなってしまったので、達成できたかよくわからない。でも、「再構築しよう」という心意気が失われたので、もしかしたら気にならないほどには変化したのかもしれない。

 

1年前のこの時期、私はテレビ局に就職しようと思っていたのだから、やはり人間は1年で大きく変わるものだと思う。

・就職先を決めることと修論提出、目標ではなくおそらく淡々とおこなわれていく事象。

と元日の日記には書かれていて、本当にそうだったとおもいつつ、それを「目標」としていいじゃないか、と今の私はおもう。

システムエンジニアの職に決まって、アカデミアを離れることを決めて、修士論文をおおかた書ききった。

職なし修士号なしだった私から、職あり修士号ありの私へ。大きな変化である。

 

人生のいろんなことが変容して、その瞬間瞬間で泣いて苦しんで乗り越えてきた。

絶対にもう一度やりたくない年で、でも今んところ一番いい年だった。

日々、年々、私の人生はよくなっていると感じているのだけれど、数日前から鬱っぽくてそういう実感も薄れて「なんもおもんないねん」とか吐いていたけど、でもやっぱよくなってきているとおもう。

 

良くなっていかなくてもいいし、良くなっていってもいい。

 

 

2024年の目標は「折り合いをつける」

自分にはどうにもならないこと、他人のこと、自分の身体のこと、自分の気質のこと、ありようのこと、それらに折り合いをつける。

 

 

「習慣の再構築」から「折り合いをつける」へ、と見てみると、私は「変えられない部分もある」ということをやっと受け入れようとしてるんだろう。

 

 

人に恵まれた一年だった。

苦しい時はすぐにSOSをHELPを出して、いつもあなたたちは対応してくれた。

「「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?」がテーマソングだと思っていた時期もあったが、今はもうそんなことは言えない。

自分から見ても側から見ても「ひとりで生きられそう」ではなくなった。

あなたがたのおかげで生きられている。

来年も、よろしくお願いします。

 

 

本当は、緩やかに破滅に向かっていたのかもしれない。

自分の中にあった自分への過信が、就活と修論執筆で崩れ去った。

どう処理していいかわからない。

でも、何も問題ではないような気もする。

 

少しずつ体勢を立て直して、少しずつなりたい方向へ向かっていくこと。

 

趣味だとか熱中できるものを楽しいと思えるものを、見つけられたらいいなぁ。

 

 

 

 

23.12.18 刺青

タトゥーが入ってるお姉さんで童貞卒業しちゃったばっかりに、タトゥーが入っているお姉さんでしかいけなくなりて~と思っていたら人生が終わっていた。

一生童貞の妄想、きっと精神の方があまりよくない。

 

「まーちゃんごめんね」が言える人はもれなく良い人である。めちゃくちゃ元気が出た。あでしゃ。頑張って走り抜ける。

 

slackでHELPをだす。自分の力ではどうにもならないこともある。深く考えることがどんどん苦手になっているような気がするし、元々これぐらいの深度だった気もする。徐々にリハビリしていきたい。

 

深夜に年賀はがきを買いに行ったら「もう売切れちゃったんですよ」と言われた。今度、郵便局に買いに行く。

お年賀を書くのは好きだ。もっと復活した方が良い文化こと年賀状。

 

あでしゃ。だよなぁほんとうに。院にあがってよかったことは、出会い。そういう話は修論出して修了が決定してからまたしますね。