なんかの夢

隙あらば自分語り

死を考える逃避

普段以上に適当に書くのだから適当に流そうと思おう。ね。

 

本当に私は正常だと思っている。

だって、みんななんでそんなに平然と生きているのかマジで意味が分からない。ずっと言ってるけど。

生きることを前提に生きている意味が分からない。

将来が不安なのに何で死を考えないのか。死んでしまえば、全部終わって全部から解放されるのに。

どうしてそうも死を考えることだけが「異常」で、他はよくある話なのか。

 

ここで、普段は明るくて楽しそうに人生を歩んでいるが、実は聡明でさばさばしている人間が僕の頭に出てきてこう言う。

「死を考える必要がない。どうせ死な(ね)ないのだから。将来が不安だから、いやなことがあるから、今の状況が気に食わないからに対する解決策として、実現しえない『死』を持ち出すのは無駄なことなのではないか?」と。

 

そういわれて、「死」を声高らかに叫んでいた僕は醜く縮まる。死ねない僕は、ひどく醜い状態で「生」の世界に放り出される。落ち込むべき状況など何もない。悲観するべき状況など何もない。多くを満たされ、少しの欠如を抱えた僕がそこに立ってる。

 

「死を考える」ことは現実逃避でしかない。

死を持ち出した逃避でしかない。

プラスへの逃避ではなくてマイナスへの逃避。

突然空から美少女が落ちてくるとか、突然宝くじで1億円当たるとかそういうのと同じ。「自分が死ぬ」という逃避。

 

多くを満たされてるが故の、少しの欠如に対する耐性のなさ。

本当に小さな小さな欠如とか不安とかに対して取り出す大きな「死」という武器。

それが、醜さ。さっき言った醜さ。みんな「死」なんて言う前に解決しきってしまっているのに、私は「死」を引き合いに出さないと生活しきれないのだ。

 

正常だとか異常とかではなくて、ただ自分が醜くてわがままで、悲劇のヒロインぶった汚い人間だというだけの話。

 

とここまで考えて、あのさばさばした人間に無性に腹が立つ。だってもう私は「死を考えること」に依存しないと生きていけないんだから。早く救ってほしい。

「死を考えること」は万能薬だ。

全部「死」が解決してくれるから。何でもいいのだ。何があっても「死んだら一緒」だから。

だからこそ「死を考えること」は麻薬だ。

一回「死」で逃げることを学んだら、何の壁にぶち当たっても「死」を引き合いに出してしまう。

すると、どんどん「死」はどこにだって現れる。副作用みたいなやつだ。

何か楽しいことがあってもうれしいことがあっても、どうせ死ぬから。すぐにすっと消えていく。そもそも楽しいことも嬉しいこともほとんどないんだけど。

少し話がそれるが、幸せだとか楽しさだとかは一瞬なのに、苦しさとか辛さは一生残り続けるの何なんだろう。一生浮かばれないじゃないか。

まぁいいや。

 

あと、「ご褒美」みたいな精神が薄れる。嫌なことやるための原動力としての「ご褒美」が嫌なことを帳消しにしてくれる「死」を上回れないのだ。

オタクだから、よく「推しに会えたから仕事頑張れる」とか「推しに会うために今日も生きれる」とか見かけるけど未だに理解できない。

推しに会えたって嫌なもんは嫌だし、推しに会う前に死んだって推しに会った後に死んだって、何が変わるのかがわかんない。ただ、私がオタクに向いてないだけかもしれないけど。

 

 

昔、『都会のトム&ソーヤ』という本を読んだときにすごくひっかかった言葉があった。作中に登場した女性(殺し屋?)の「死んだっていい。もらった命を返すだけ。」的なセリフ。読んだときは、本当に意味わかんなくて、他の人に「これ共感できる?」と聞いてしまったまである。

いつから、こうも「死」に依存してしまったのか。

 

取り返しのつくギリギリを生きてる。それもまた恥ずかしいんだけど。

「ちゃんと生きること」を手放せない。

週3,4でアルバイトに行って、単位だって全部取ってる。単位が取れなくなるほど、休講したこともない。

他の時間は寝てるか「死にたい」って言ってるか寝てるか。

「生」を手放す勇気も「死」に飛び込む勇気もない。正しく生きる努力もできないし、今日もまたこんな時間まで起きてる。

 

 

みんなは、なんで今日も生きているんだろうか。

私は、なんで今日も生きてしまっているんだろうか。

 

「そんなぼーっとせずに、ちゃんとやりなさいよ。なんで泣いてるの。どうせ、そのままふて寝して、勉強しないんでしょ。それじゃダメでしょ。」

 

はーずっとか。また、就職ごろになったらちゃんと進んでしまうんだろう。コマを進めてしまうのだろう。もう。だめだ。

いつ助かるのか。助からないのか?何をすれば助けられるのか?

よくわからないや。

 

僕だって、外から見れば「平然と生きてる」

人生は1度きりじゃないので転がれない

こんばんは。おはようございますの人はおはようございます。朝日が昇り窓を開けると心地よい風が入ってきますが、私はこの朝の訪れを歓迎はしません。また1日が始まってしまった絶望が大きいので。

てなもんで、今回も自分語り自分語りに次ぐ自分語り。センスもなければ文才もない、とはいえ自意識だけ過剰な人間が自分の思想を書き綴る場です。

ブログなんてまともな神経してる時には書けないので、お笑いライブ二本はしごして現実感が薄れたまま、例のごとく昼夜逆転で寝れない頭で書きます。明日は3限からです。3限の予習もしてない。起きれる見込みもない。そんな状況。

 

一回、私は、下のようなツイートをしました。

 

 

 この話をします。

 

「一度きりの人生」というと「一度きりの人生転がるように、笑って泣いていきて行こうぜベイベー」って頭に流れてきたので、それにあやかってタイトルはつけました。本文にはあんま関係ないです。

 

(以下、突然の常体)

 

「人生は一度きりではない」というのは、別に輪廻転生を説きたいとか、前世や来世を信じてるとかそういうわけじゃない。

正直、「人生は一度きり」で確定だ。だって、1回しかねーもん。でも、だからって、1回しかないからマジでこの人生良いものにしような!みたいなのが理解できないのだ。

 

自分を偽ったり隠したりして生きるくらいなら、一回死んでやり直せばよくね?っていつも思う。私は、人よりも「死」を引き合いに出す沸点が低いのでこういう発想がすぐ生まれちゃう。みんなが「死んだら意味ないじゃん!」みたいな考えなのはよくわかってる。でも、私は「そうやって生きてるのって死んでるのと同じじゃん!」と思っちゃうのだ。

どこが、「死んでるのと同じ」なのかは続きを読むとなんとなくわかってもらえると思う。

 

最近気づいた私の考え方がある。それは、「自分は『自分』という存在としてこの世の中に認められ受け入れられないと価値がない」というもの。自己承認欲求と自己顕示欲の権化のような人間なので、本当にずっとこう思っている。

「一度きりの人生、自分のために生きなきゃね☆」みたいなのが本当にわからない。自分のために生きた人生は、何になるんだろう。自分が死ぬのと同時に、自分の生が消え去ると同時に、その自分が幸せだった思い出や自分が満足した思い出はすべて消え去ってしまうのに。「自分のために生きた」ところで、死後の世界に何が残るんだろう。死後の世界に何も残せないとき、誰が私が生きていたことを証明してくれるんだろう。誰からも証明されないのに、私はこうも生を続ける必要があるんだろう。とかそう思っちゃうのだ。

 

もう一つ、「私は『私』という存在として認められたい」について。私は「上手く」生きることの価値がいまいちよくわかっていない。私は全人類に「私」という人間を知ってほしいし、それがもし汚い部分だったとしても「私」を知ってほしくて、そしてそれを愛して欲しい。だから、「こういう一面がありますよ」みたいなのを、こうやってブログに書いたりツイッターで書いたりしないとやってらんないのだ。

わかってる、打っててマジできもいなこいつとは思ってるから。責めないで。

だって、こう「私」として生まれた以上、「私」の本質が愛され認められ受け入れられないと意味がなくないか。これは前段落の話ともつながるが、「私」を偽ったり隠したりして上手く生きることは、生きてる間は幸せかもしれないけれど、死んだら何でもないのだ。何でもない。私がいい人でも悪い人でもどういう人となりでも、周りが思った印象のままの私が残ってしまう。偽られた「私」がぽつんと残るだけ。本当の「私」がいきた証なんて残らない。結局こう、うまく生きることも「自分のために生きる」の仲間なのだ。

 

こう考えていると、この生を少しでも良いものに良いものにしようとするのは間違っていて、「私」として生まれたので「私」として生きて、もしそれがクソみたいな人生だったら、まぁ別の人生で割とよさげな「私」になっていい人生あゆんどきゃそれでいいんじゃない?って気分になる。で、その時に「人生1度きりじゃないのかもなぁ」って気がした。ので、あのツイートをするに至った。

 

ポップな例えでいうと、みんなはガチャの種類としては「人生」ガチャを引いてると思ってる。ある何かしらの私というものがあって、それが「人生」ガチャを引いて人生を決めている。

それなので、1回しかひけないとおもってるし、何度も引けることを「転生」と呼ぶ。

でも私は、「私」ガチャを引いてるという感覚。というか、ガチャをひく私なんて元々なくて、その「私」自体をガチャで出してるみたいな感じ。

だから人生は一度きりだけど、一度きりじゃない。

 

 

まとめると(?)、私はこの人生が楽しいかどうかは割とどうでもよくて、それ以上に他人から承認されることを求めているという話でした。

 

「自分の機嫌は自分でとる」もいまだによくわからないのも、きっとこれが理由で、自分の機嫌が悪いときのこと誰も知らないなんて困るんだよ。ずっと機嫌がいい人だなんて思われちゃった日には困っちゃう。違うんだから。機嫌が悪い日もあるよーって知ってもらわないと。困るじゃないの。

 

うーん…自己愛と自己承認欲求と顕示欲の大爆発みたいなすさまじい記事になってしまった。

ただ、ありのままの私が全人類に認められないと満足できないみたいな性格があるせいで、多分一生私は幸せにはならないし、ずっとずっと死にたいんだろうなぁと思います。自分が今死ぬのとあと40年生きて死ぬのとで、死後の世界における自分というものを変えれる人なんてほとんどいないので。「今死んでも一緒じゃん」と思ってしまうだろうし、長く生きる意味とかは理解できない。

 

以上、自己紹介文でした。これは、個人の見解であるのであんまり気にせず皆さんは生きてください。私もどうせ死ねずに生きますので。

 

 

 

 

 

 

「ドリームマッチ2010」の東京03×サンド伊達のネタのエモさ。

たまたまYouTubeで見た「ドリームマッチ2010」の03×サンド伊達のネタが、実は激エモだったので、誰かに言いたくて書きます。(YouTubeにあるよ。「東京03 サンド伊達」で検索してね☆)

 

何がエモいかというとこのネタ、初だしじゃないんですよ。これを含めて三回やってる。

 

まず1回目が、2000年。

チョコレイトハンター*の『THE REMIX 4DAYS』というライブの3日目に行われた「ドクトル・バルゴ」というコント。これが設定/流れ共にだいたい同じ。

この時は5人のコントだった。(メンバーは、アルファルファ*/ラーメンズ/オークラ)

 

 

※チョコレイトハンター…アルファルファラーメンズ、オークラによるコントグループ

 

アルファルファ...東京03の飯塚、豊本が過去に組んでいたコンビ

 

 

2回目は2002年。

光が丘大サーカス*の『光が丘大サーカス〜サーカスのできない人たち〜』というライブで行われたコント。これもだいたい同じ。

この時は4人でやっていた。(メンバーは、アルファルファスピードワゴン)

 

※光が丘大サーカス...バナナマンおぎやはぎ劇団ひとりバカリズム(コンビ時代)、アルファルファスピードワゴンエレキコミックによるコントユニット

 

そして3回目が2010年。

これが冒頭に話した。『ドリームマッチ2010』でやったコントだ。

これも4人(メンバーは、東京03サンドウィッチマン伊達)

 

エモポイントは二つ。

一つ目に、度々演者が変わっているのにずっとアルファルファだけは変わらないということ。

アルファルファを軸にして、このコントが何度も復活している。(実はアルファルファだけが共有されて、昔のコントが復活するという現象は多々起こってる。その度にエモエモや〜と思ってる)

周りの人間は、「それ面白いコントだね!」と思うだけだが、アルファルファの二人は「これ懐かしいね!」っていう気持ちを共有してる。最高すぎる。

 

ちなみに配役は以下の通り。

紅蜂...①オークラ②小沢③角田

イーグル...①豊本②豊本③伊達

ファルコン...①小林②井戸田③豊本

タイガー...①飯塚②飯塚③飯塚

タイガー役を10年越しでもなおやる飯塚さんが楽しい。

 

二つ目に、「ドリームマッチ2010」にはバナナマンおぎやはぎが参加してるということ。つまり、光が丘大サーカス時代に見たことのあるネタを8年ぶりにもう一度何気ない顔で見てたってことになる。いやぁ...エモい。

 

 

とまぁ、あの世代の芸人さんが大好きな女が、テンション上がった話でした。

明日、カジャラなのでカジャラ #1を見てたら、なんだかいつのまにか調べていた。

まだ若い私が、こんなに情報を得ることができたのは、当時その舞台を観に行った人のブログを見たからです。

羨ましい気持ちでいっぱいになりながら、その成果をブログで綴る深夜(もはや朝)

どうして、2000年前後に東京の大学生じゃなかったんだろう。どうして生でチョコハンも宇田川フリーコースターズも君の席もgenicoも光が丘大サーカスも見れない時代に生まれたんだろうと思いながら。

handmade worksは見に行けることに喜びを感じて。

 

あ〜アルファルファの周りはエモで溢れてるなぁ〜(大の字)

 

 

以上です。寝ます。ありがとうございました。明日に支障が出ないといいな。

24歳モガヘアー主婦!!!!!!

お魚くわえたどら猫を追いかけるために、靴を履き忘れて裸足でかけてしまったり、

買い物に行くのに、財布を忘れてしまったりとか、

私って、昔からドジなことが多いんです😅

周りからは、「陽気」とか「愉快」とか言われてたけど、自分ではずっと気にしてて...。

 

そんなことをママ友に相談したら、「精神科医に診てもらったら?」と言われました。

「え?精神科医?なんで?」と思いつつも受診。そこで衝撃の事実を知りました!!

 

実は私....

 

ADHD

だったんです!!!!!

 

確かに、言われてみればADHD傾向が出てたかも...と思う出来事がいくつも思いつきます😔

 

そして、弟であるカツオも、多分そうなんじゃないかと私は思ってます。

遺伝の影響は少なからずあるそうですね!

なら、息子のタラオは大丈夫だろうか...と心配になってきました...。

どうしよう、どうしよう。

あっ、母さんが呼んでる!そうだ!!肉じゃが煮込んでる途中なんでした!!

焦げないで〜!!

珈琲

【1章】
貴方に出会ったのはずっと昔だった。

苦いとも辛いともつかないがなんだか受け入れない後味で、僕は貴方をすぐに嫌った。

それから貴方と出会っても避ける日々。

けど、時折急に貴方を思い出してしまう。

そして、僕は貴方を一度受け入れようと思った。出会った頃から僕は随分と成長していた。

が、やはり、好ましくない。

しかし、ここで避けては昔と同じ。

僕の好きなようにアレンジしながら、僕の中に流し込む。

最初は嫌いだと思っていた不思議な後味を、僕は理性ではないどこかで求めるようになっていて、

どうにもつかない感情に襲われた。

感じたことがあるような内容なそんな...果たしてこれは...

そして出た答えは「恋」

そう、これは恋だった。

今日、僕は、珈琲に恋をした。

 

【2章】

私は、まず最初に何も入れずにそのままの君を味わう。

体に流れ込むどうにも良いとは思えない液体。

しかし、それが君の本性なのだと一気に飲み込む。

飲み込んだ後私は思うのだ。

もう一度。と。そして、もう一度口に含むと、やはりまた体が拒否する。

しょうがない。と思い、私は君を私色に染め上げる。

少しずつ砂糖とミルクを加えていく。君の色が少しずつマイルドになっていって、私に近づこうとしてくれる。

まだ君になれない私は、見よう見まねでブレンドするため、時より私とずれてしまう。

しかし、その感触でさえ愛おしい。

君はいつも違う表情を見せてくれる。

その全てを愛しながら、ピッタリと当てはまるところを見つける。

やはり君が好きなのだ。

君と出会うと、私はどうしようもない背徳感に襲われる。

そして、同時にどうしようもなく君が私だけのものになることを望む。

その闇さえも。その真っ黒な部分さえも私ならば愛することができると思うのだ。

 

 

【3章】

もう、私とあなたが出会って3回目。

砂糖とミルクの量を間違えることもなくなった。ぼんやりと沈む視界の中で、もう慣れた君を受け入れながら眠りに落ちた。

起きると時は酷く流れていて、周囲の情景は様変わりしていた。しかし変わらずそこに鎮座する君の存在に安堵する。君はすっかり冷えてしまっていたが、変わらない風貌で佇む。

寝起きの眩む視界の中で、君だけを得て君だけを受け入れる。受け入れると鮮明になっていく視界に私は少々悲しみを覚える。君と僕しかいない世界が遠のくようなそんな気がして。

行かないでとばかりに私は次から次へと君を流し込む。

そこには最初感じていた抵抗感など微塵もなかった。

しかし、行かないでと言っても有限。

愛してるよ、また今度。と別れを惜しみながら、丁寧に最後の一滴を流し込む。

きっと君は私の中にいる。だから悲しくないとわかっていながらも、君を失うのが惜しくて私は一滴、涙を流してしまったのであった。果たしてその中に君はいくら含まれていただろうか。なんだかそこに君がいる気がして、その涙をまた、私の中に入れ込んだのであった。

I

最後は一気に煽るのが好きなんだ。ずっと、ちびちびと飲んでいたから。

最後ぐらい一気に。そしたら、今まで少ししか感じられなかった流れ込んでいく感覚が、より鮮明に感じられる。ドクドクと私の中に入っていく。それがたまらなく好きだ。

 

 

【4章】

コーヒーは背徳の味がする。

平日の朝から、一番安いからという理由で、飲めもしないコーヒーを頼んでいたことを思い出す。

苦いという言葉だけでは、表しきれないような、私の苦しさに寄り添ってくれる、そんな味に魅了されてもう2年。

彼に恋して、もう2年。

久しぶりの逢瀬である。

 

 

 

【5章】
貴方を選ぶのは、いつも打算的な考えからだった。今日もそう。

初めは躊躇していたけれど、もう淀みなく選べるようになっていた。

慣れた手つきで、砂糖を半分、ミルクを全部入れてかき混ぜる。

見知った色、見知った味に変わった貴方を、何の新鮮さも感じないまま流し込む。

あの頃のドキドキも、あの頃のワクワクももうどこかに消えてしまった。

もう貴方のことを苦いとも苦しいとも愛おしいとも感じなくなっちゃった。

そう思いながらも、貴方を見るたびに貴方の思い出を語ってしまう。

でも、きっと、思い出でしかない。

最近では、私の体が彼のことを拒むようになっていた。

彼を流し込んだ後に、感じる胃の痛み。

最初は、何かの間違えかとさえ思った。そう信じたかったけれども、長くは自分を騙すことができなかった。

感情で拒んでいた貴方をやっと受け入れることができるようになったのに。

貴方に恋して、もう3年も経った。いや、まだ3年しか経っていないのに。

身体でも拒み、感情も冷めてしまった私の目に映るのは、ただの飲み物としての「コーヒー」だった。

 

 

 

 

以上、マクドナルドのコーヒーSサイズによせて。

読書後の排泄あるいは嘔吐 『火花』をよんで。

今更、又吉直樹の「火花」を読んだ。

文庫本化してすぐに購入したので、購入からもう1年以上は経っていると思う。最近は、特に芸人(しかも若手)のネタを見ることが増えたし、なんとなく読書がしたいなと思っていたので、やっと読むに至った。

この記事は、前半は「火花」についての個人的な感想、後半は私の読書に関する感覚を書くつもりでいる。どうでもいいか、そんなこと。

ネタバレガンガンに含みますので、注意してください。あらすじとかは書きません。

 

「火花」を読むにあたって、スピードワゴンの小沢さんが、「金属バットは火花に出てくるコンビみたいだね」と言ってたのが印象に残っていて、何度も金属バットの顔が読みながらちらついた。

そのせいか最初の方は、神谷が友保に見えてしょうがなかったけど、あとの方では完全に「神谷」と「徳永」という存在が脳内に生まれていてどうしようもなかった。

それに、又吉さんが書いていることもあって、最初の方は文章からあのロン毛のクルクルの又吉さんがちらついてしょうがなかったが、いつのまにかそんなことはなくなっていた。

いまだに、純文学がどうとかはよくわからないが、人間が人間をしている姿が鮮やかに描かれていて、どうしても読みながらドキドキしてしまった。

神谷にあこがれる徳永の気持ちがなんだか痛いほどにわかってしまって、一つ一つの彼の感情がそのまま自分にも乗り移ったような感じがした。神谷がどんどんと落ちていって、なれの果てに絶望するところなど、もうなんだかこっちも強い絶望を感じて泣いてしまった。でも、やっぱり神谷への憧れはぬぐえなかった。徳永も私も。

神谷は、馬鹿真面目に阿呆をやっていて、決してうまく生きていないけどすごく純真に生きていた。本当に、誰がそんな人生に憧れずにいられるんだろうか。

また、徳永と神谷の会話も、ありふれた会話とは確実に違う雰囲気があって、すごくいいなと思った。すごくいいなと思ったとぐらいにしか形容できない自分が辛いところだけど。

 

あと、私は芸人というものがすごく恐ろしくてすごくかっこいいと思っているので、さらに感情移入して読むことができた。

人を笑わせることを大真面目に考えることができるって本当に一握りの人間にしか不可能なような気がする。何が面白いかなんてよくわからないし。

「お笑いを解剖したらお笑いが死ぬ」なんていう言葉をどこかで聞いたことがあるけど、彼らはいつも解剖して構成だとかを考えて、でも自分の奥底で面白いって感じる感性も信じてネタを作って披露してるんだと思うと、なんかもう本当に別次元の人たちみたいだ。

 

閑話休題

結論(?)として、ずっと寂寥感の漂う小説ではあったけど、どこか少年漫画並みの熱さと青春を感じた作品だった。そして、「神谷」と「徳永」、それを囲む人間たちはしっかりと脳内に住み着いてしまうほどにしっかり人間だった。

 

 

と、後半戦。

前半も大いに自分語りだったが、後半はさらに自分語りだ。

私は、この「火花」を読むのに4時間ぐらいかかった。171ページの「火花」を。途中で、4,5回嗚咽を挟んだ。私は、いつだってそうだ。

年を取って、涙腺が弱くなっているのは確かではあるし、今日は特に精神が崩れていてどうしようもなかったのもあるけど、フィクションに触れるといつも泣いてしまう。

 

自分が自分の人生を歩んでいることがどうしようもなく醜く感じられてしょうがないのだ。

フィクションに触れて、新しい世界に触れて、私はもう完全にそのフィクションの中に入り込んでいるのに。その世界は一つもここに存在してない。顔を上げると、自分が自分のセンスで選んだものが並んでいて、何も変わらない日常が変わらないで存在していて、結局自分は自分で変わらないことがもう気持ち悪くてしょうがない。

結局、フィクションの中に入れない自分が惨めでしょうがない。本を読むと、必ずと言っていいほど、今の自分を否定したくなるし、今まで生きてきた十数年間をぶち壊したくなる。

私が、もっと喜ばれるような素敵な人生を送っていたらこの惨めさは解消されていて、気持ちよく読書を楽しめていたかどうか、それはわからない。

 

高校に入ったぐらいから、どう考えても私は読書に向かない人間なのではないかと感じるようになった。

まず、単純に読むのが遅い。集中力が微塵もない上に、すぐに自分に繋げて別のことを考えてしまったり、そうやってフィクションにまで顔を出す自分が気持ち悪くてしょうがなかったりしているとページが全然前に進まない。

それに、本を読むことは、この世に存在し得ない素晴らしい世界を、美しい人間たちを知る行為だ。そんな世界を人間を、どんなに愛しても虚構でしかない。毎回、その現実に辛さを覚えてしまう。

ただ人が文字を綴っただけなのに。馬鹿みたいに現実だと錯覚してしまうのだ。

やっぱり、フィクションは現実より素敵で理想で鮮やかで、だから本当に現実にいる自分が汚くて惨めで何者でもないのがどうしても辛い。

本を読むたびに、自分という存在をグチャグチャにしてゴミ箱に捨ててまた新しく生み直したいと思って泣くのを続けていたらどうも身が持たない。

 

1年に何十、何百冊も読める人たちは、どうやってそんなに本を読めるんだろう。

たくさん本を読む人は、きっと食事みたいに、本を読んでしっかり消化して自分の栄養にして、次の食事に向かっている。

おそらく、私は、まだ消化器官が出来ていなくて、正しい本の読み方がイマイチよくわからないままで、毎回消化しきれずほとんどを嘔吐してしまっている。

いつの間に、こんなに読書が下手になってしまったんだろう。

 

終わりが見えなくなってきたのでここでおしまい。本を読んでいる途中は、何か色々と浮かんできていたけど、もう忘れてしまったし、深夜の死にかけの脳じゃ文字も綴れないらしい。

 

今日のカウンセリング(?)で、「なんで早く寝れないんですか?」と言われてしまった。

私は「意志の弱さですかね」と答えるしかなかった。

今日こそは早く寝るぞと思った。本を読んだ。この思いを文字に綴らないとと思った。いつのまにか5時だった。

 

文字に綴ると腐敗して吐きそうなほど気持ち悪い自分語りでしかなくて、なんなんだろうこれはと思って、まぁ排泄物とか吐瀉物ほどの汚さであるから、看板には偽りなしだなと感じつつ。

 

全削除したい衝動を、2500字書いたのにという勿体無さで拭って。

はー、本当に、いつになったら「私」をやめられるんだろうか。

もっと破天荒で純真な神谷みたいな人生を歩みたかったんだ、僕は。

 

 

 

 

 

 

 

電波時計が狂った

電波時計が狂った。

電波なのに。

部屋に帰ると、秒針が31秒と32秒の間を行き来していて、その動きは正直とても気持ち悪かった。

電池切れだと、気づいた私は電池を入れ直した。

すると、秒針は元通り動き出した。

正常に作動していなかってであろう約35分の遅れを一切取り戻すことをせずに。

「電波受信」のボタンを押すと、電波を正しく受信したということを示す「ok」の文字が現れる。

約35分の遅れをそのままに。

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↑OKという文字が出ているのにも関わらず「正しい時間」を指さない電波時計

 

ここで、私はある可能性を思いつく。

電波時計が遅れているのではなくて、携帯電話の時計が早すぎるのではないかと。

「本当の時間」なんて言うのは、そもそも可視化されていない。

この日本にある時計の多くが指している時間が、「本当の時間」として扱われている。

電波時計という一般に「本当の時間」を指すとされている時計が狂った今、どうして私は時間という存在の絶対性を信用できるだろうか。

私は、もしかして、ずっと、約35分早い時間で生活していたのではないか。(ここで“早い”という表現を使ったが、そもそも何に対して“早い”のかはもうわからなくなっている)

 

ここで、信用できるものは何か。

皆さんは知らないかもしれないが、私は昔「本当の時間」をステキなお姉さんが教えてくれる電話番号を聞いたことがあった。

その番号は「117」

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都市伝説まがいの話だと思っていたが、

電話をかけてみると、そのお姉さんは、はっきりとした声で携帯電話の上部に書かれた時刻と全く同じ時刻を教えてくれた。

「午後8時59分40秒をお知らせします」と言って。

 

どこまで、このお姉さんが信用に足るものかはわからないが、

このお姉さんと携帯電話という2つが支持(指示)する時間と、電波時計という1つが支持する時間であれば、

単純に2:1で、前者が信用性は高いだろう。

 

今回私は、携帯電話に書かれた時間を信用することにした。今後もきっとそうやって生きていくだろう。

もしかしたら、これは間違えだったかもしれない。

数年後、いや数十年後。私は、この選択のせいで、なにかの不利益を被るかもしれない。

しかし、私は天文にも潮の満ち引きにも精通していない。

私は、携帯電話や時計と言った人間の作り出したものでしか時間を知ることができないのだ。

機械に囲まれて育った現代っ子の悲しい末路とでも言えよう。

 

皆さんは、一体何を信じて生きているのだろうか。

「寝坊」というが、時計が先走りすぎたという可能性はないのだろうか。

真実がわからなくなったら、電話をかけてみてほしい。「117」に。

もしかしたら、もうかからない番号となってしまっているかもしれないけれど。

時間を教えてくれたあのお姉さんは、どこの誰で何という名前なのか。私はまだ知らない。

それでも、不思議と私はあのお姉さんの発言を信じる気になった。

だから、みんなも。嘘だらけのこの世界で、真実に迷ったら。

「117」と打って、発信ボタンを押してみて欲しい。そう思うのだ。