松浦理英子の『奇貨』に収録されている表題作「奇貨」を読む。
今まで読んだ中(『ナチュラル・ウーマン』『葬儀の日』『ヒカリ文集』)で、おそらく一番共感した作品だった。
本田の気持ちも七島の気持ちもよくわかる。
というと、私はろくな人間関係を構築してきていないというのがバレてしまう。
そもそも、構築するのが苦手で、そしてそれらは深い親密さに発展せず、振り回されてばかりなのだ。
松浦理英子を読むたびに、みんな簡単に仲良くなって性的な快楽や独自の親密性の形を見つけ出したりするもんだから、その地点で一旦ぱたんと本を閉じてしまうのが常だった。
今回も何度も閉じたので、別に変わりはないのかもしれない。
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しかし、現実には私はいつもそういう光景の見物人でしかないのだ(pp.79-80)
とは、主人公である本田が〈友達ロマンス〉(友達同士で起こる「ロマンティック」な光景、あるいはドラマティックなエピソード)に関していう言葉であるが、
ここを読んだときに、語り手である「私」は「松浦理英子の作品を読む私」でもあるのかもしれないと思った。
「しかし、現実には私はいつもそういう光景(松浦理英子の作品で展開されるような傷つき傷つけられるような激しさを伴う親密な関係の表象)の見物人でしかないのだ」
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さて、この作品でぐっと心寄せられたのは、「同性が同性の友達と築くような親密性」への嫉妬心を鮮やかに描き出しているところである。
「ような」であり、事実上同性である必要はない、と一応付言しておくが。
『ヒカリ文集』において、裕が性行為よりも一緒に旅行に行くだとかそういう親密さに嫉妬するのだ、というセリフがあって、ひどく共感して付箋すらつけた。
そういう親密性に対する嫉妬心には覚えがある。
「私以外と共有されているすべての文脈が憎い」と書き綴ったことがある。
私にはネトストの気があるが、SNSに残された言葉がすべて私に向けられた言葉ではない(その中には「他の人、私が知るよりはるか昔から知る人へ向けた言葉」すらある)ことに耐えられなくなって、ネトストを辞めたのも同じ時期である。
文脈を共有すること、文化を共有すること、それは私にとって強く親密性を示すものである。
相手の好みに合わせて作品をおすすめしあうこと、前回会った時の話に出た場所に次の機会に行ってみること、メンバー間での特有のルールが定まっていくこと、、、
回を重ねるごとに相手に対する解像度は上がっていき、回を増すごとに文脈ができていく。そのような文脈がすべて憎い。
セックスをされるよりも数百倍憎い。性器を結合するだけでできる文脈などないからだ。
とはいえ、それは人間関係の主軸でもあって、別に特別な関係性でなくてもある程度発生しうる親密性である(だから「友達同士の親密性」なのだ)。
そのため、そこに嫉妬している場合ではないことも重々理解している。このままでは、誰と付き合っても苦しいだけだろう(だから、付き合えないのだ)。
と考えながら思ったのは、やはり文脈を脱した/超えた形で、つまり、「あなたと話していたから」だとか「あなたが好きそうだから」とかではなくて、「あなただから」ということで物事が発生するような関係性が欲しい。
あなたと私との二者関係の中で、醸成しうる文脈には限りがあるにせよ、そこに暴力的に脈を発生させてしまうこと。なぜなら「あなたとそれがしたい」から。
それがあれば、文脈を少しは憎まずに済むかもしれない。私はそれをこえているから。
こういう話は1ヶ月か1ヶ月半ぐらい前に永遠に考えていて、苦しすぎてやめたものなのでここで措く。
松浦理英子は嫌なことを思い出させるのがうまい、というよりそれぐらいリアルな人間関係と人間の感情の描写なのだ、憎い。
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松浦理英子を読むと色々な想念が浮かんできて、それはノイズだと思っていたが、松浦理英子を読むうえでしょうがないことなのかもしれない。
と今日ツイートしたのも、松浦理英子の技術を最大限に褒める意味からであった。
一方で私のノイズの入り方はおそらく独特で、自分の好きな人がこの本を読んだら、おそらく私ではない別の人との関係を思い出すのだろう、と思って嫉妬で苦しくなって本を閉じてしまう。
嫉妬しかしていない。だから、今回も数度一旦パタンと本を閉じた。
対象が変われば、関係が変われば、ノイズは無くなるかと思ったが、ノイズの質が変化するばかりで、ノイズがあることには変わりなかった。
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ちなみに、私は恋愛関係にない人々が同居することにかなり関心がある、そして特に異性同士が同居することに関心があるので、その意味でも「奇貨」は面白い作品だった。
私もよく、恋愛関係ではない男性と同居したいと妄想していた。
だが、その一方で、端的に男性と性的な関係を持ちたいと思う気持ちも捨てきれないのであって、性的関係もあって同居してくれて私を妹みたいに近い存在だと思ってくれているけど彼女もいたりする男性が良い、と思っていた。
相当わがままを言っている。
とはいえ、実は、性的関係以外はかなりこの小説が書いていたものに近い。
私の中で、性行為(性器結合)に対する信頼の無さとそれに対する欲求で引き裂かれそうな時がたまにある。
松浦理英子において、性的な親密さ(それは単なる性器結合とは異なる)が軽んじられることはほとんどないわけだが、
私の中では、まだ性的な親密さと単なる行為としての性器結合の差異も見いだせておらず、私の求める親密性に入り込む不純物として性がある。
性欲に基礎づけられない長年の親密さの方が、性欲に基礎づけられる親密さよりも高尚に決まっている。
でも、私は、一番仲の良い男性と性行為がしたいタイプだ。
一番仲のいい男友達を、性的な意味でも恋愛的な意味でも好きだと思ってきた人間だった。醜い。
そう思うと、別に相手方だって……と考えられるわけだがこれ以上はさすがに醜悪なのでやめにしよう。
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七島に対する解釈にかんしては、かなり自分の視点が含まれるが、
舐められたくない〈受け〉ってむずいよね、と勝手に共感する。
やはりちょっかいをかけてきたりからかってきたりする人が好きなのだけど、視点を変えればそれは馬鹿にしているだとか舐めているだとかになって、どうにも不安定になる。
怒りと憎しみと、でもそれでも好きである気持ちが同居する。
そういう時は、他の人からはからかわれる〈受け〉の体質で、私に対してだけはからかってくれる〈攻め〉の人を選ぶと良い、というのがなんとなくの私の「タイプ」である。
そうすると人を馬鹿にすることでつけあがるような人ではないことが確認できてうれしい。
この理論は、なにかうまくいっていない感覚もある。
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疲れた。
「奇貨」かなり良い作品だった。
もう一回ふらっとな気持ちで読み返さねばならないという気持ちもある。
松浦理英子どんどん読んでいくぞ。