なんかの夢

日記ニキ

23.08.25 宛先のあるラブレター

【出来事】(出来事の語り)

菊池恵楓園にいった。

ずっと行きたいと思っていたのでいけてよかった。

コロナがもっと落ち着いたら、監禁室などを実際に見たいところだ。

水俣病の方もいつか行きたい。

出身県で起きた出来事についてしっかりと知っておきたいとおもう。そういう地元への思い入れはある。

 

 

【考えたこと】(思考の語り)

宛先の「ある」ラブレターについて考える。

私は、宛先のあるラブレターを書いたことがない。いや、正確に言えば渡したことはない。

宛先のないラブレターなら何度も書いたが、そして渡さないラブレターならメモに蓄積しているが、渡す宛先のあるラブレターは書いたことがない。

出来事と思いを書き連ねて蓄積させていたメモの文字数を数えると2万字あって流石におののいてしまう。

そのメモはもう文字数を増やすことのないメモである。

「ずっと好きだ」と言った以上、私は平然とずっと好きでいるつもりだが、とはいえ思っているより好きだったんだなと読んで感心してしまう。

 

宛先のあるラブレターを書いてみても良いのかもしれない。

何をかけるだろうか、ただ好きだとしか言えないのではないか。

文字を書いて思いを増幅させて勝手に思い悩んで恋を高尚なものへと追いやっていく。

そういう作用を施さなくとも肯定できるものである、というのがその関係性が心地よく進行していることの何よりの証左ではないか。

空虚なラブレターを私は信じない。目の前のものを見つめるだけで幸せなのであれば、文字に書くことなどない。

いつか終わるとわかっているから書きつける、歪んでいるから慌てて整合性を保つように文字を連ねる。

私にとってのラブレターはいつもそんなもので、書かずにいられているのは何よりあなたが好きだという証拠なのである。

という、宛先のないラブレター、しかもメタ。終わりのレターだ。

 

 

うぬぬ、帰省中は毎日どうでもいいことばかりをどうでもいいように悩む仕草が増えた。

時間が余っており逃避的であるからだろう。

またこんな時間になっている。愚かを積み重ねるのもあと数日。

痛々しさが増しているならば、それは私の中の高校生までの私が賦活しているからだ。

 

こんな場合ではない。