なんかの夢

隙あらば自分語り

日記を書かなくなった

高校1年生の時から毎日日記をつけていた。

一週間分の日記を一気に書くこともよくあったし、受験生だった高3の時はほとんど書いていなかった。

それでも、大学生になってからはある程度書いていたのだけど、主に卒論の影響で11月以降にパタリと書かなくなった。

 

日記を書かなくなったことをずっと気にしている。年度ごとに手帳を買い替えており、新年度は心機一転また書き始めようと思っている。

だから、その前にこの数ヶ月書いていなかったということの懺悔をしたい。そういう記事です。

 

卒論が忙しくて書けなかったのが11月~1月だとしても、卒論提出後は書けたはずだった。でも、書けなかった。

 

卒論提出後、私は半ば駆り立てられる形で予定をいれた。

日記の件とはまた別件で、昨年度はとにかく、自分のコミュニティの狭さを恥じ、人とたくさん関わらなければならないという気持ちに呪われており、卒論提出後その呪いに駆動される形でいろんな人と会った。

予定が詰まっていないことは、自分の怠惰さや自分が世界から求められていないことの証左であるように感じられて、できる限り忙しくしていた(とはいえ、他者と比べれば全く”普通の”生活である。私は他者に比べて活動性みたいなものが低い、低すぎる。常に過眠気味なので活動時間も人よりだいぶ短い)。

 

予定が詰まっていたのならさぞ日記に書く思い出も多かろう、と思うかもしれないが、そうではなかった。

2、3月の私は常に現実感の無さにさいなまれていて、昨日のことを思い出しては本当にあれは私だっただろうかと思いつつ、常に起こった出来事の解釈を先送りしていた。

そんな2、3月頃に書いていた文章の残骸が見つかった。

 

私は常に過去にすがっていて、過去を反芻しながら生きている。

だから、本当に目の前のことを見ていない。

それが苦しい。現実感がもうずっとない。一年前にもそんな記事を書いていた。

高校からずっともうなにがなんだかわからないまま日が過ぎている。

 

◉ずっと現実感がない

去年も同じ趣旨のブログを書いていた。

みんなはあるんですか?人と会っている時ほど、全てが夢のように思える。

中身が見えない他者と他者の反射のように存在する私だけがいる。

家に帰って泣きながら、現実ってなんなんですかと言っている。

受け入れられないからかもしれない。自己の中の自己像と実際の私が大きくかけ離れていて、それをまだ受け入れられていない。

 

リアリティを感じられない出来事がどんどん起こって過ぎていったので、それを振り返り向き合うことがこわかった。これらの出来事を私の人生に位置付けることができなかった。何も感じない出来事(いやそれらはすべて楽しい出来事ではあったのだが)を脳内でどんどん「大切なこと/重要なこと」へと肥大化させて文字に残す気持ち悪さに耐えられなかった。

だから、もう書かなかった。書けなかった。

 

そもそも、私の日記は出来事を書くものではない(ということに気づいた)。

出来事にあふれている時期に、私の日記に書けることなんてない。

「今日は誰と○○へ行き、××を食べた」という出来事の記録が日記のスタンダードであるだろうし、私の日記も振り返ってみて見れば「今日は朝起きることができず△△の授業に出られなかった」という記録ばかりである。

だが、私の日記の本分は、自分が強く心動かされたものに対する熱情を書き綴ったり、考えたことや思い悩んでいることを長々と書くところにある。

……読み返してみたら本当にどうでもいいことばかり綴っていて、そうではないかもしれないと思ったので、この話は保留です。

 

2021年を迎える前の大晦日に書いた記事(下書きに残っていた)から、良い(?)文章が見つかった。

 

本当に、私は私の外にあるものに対する愛着がない。私は、ずっと私の脳内にあるものだけを愛し続けていて、外で何が起こっていても何でもいい。寂しい人間だこと。

 

可哀想に。

私の人生や脳内、そして「現実」に、現実の出来事や関係のある他者は位置づけられず、疎外されている。

概念になってしまったあの人や想像上の「私」だけが強いリアリティと共にあり、その脳内だけを愛し続けている。

数年前に「とびだせ!のりちゃんランド」という、私がずっと脳内で妄想してばかりだという記事を書いたんですが、それから一向に変化していない。私はずっと自閉的だ。

 

だが、それだからどうしよう、と思い悩むことも解決することもしない。

何も問題化しない。そういう肥大化がもう面倒になった。

もしかしたら退化かもしれない、考えることを辞めてしまったのと同義かもしれないということだけが不安としてあった。現実と向き合わないことや私に起こっている出来事から距離を取ることで、私は昔できていたはずの言語化の能力を失ってしまうのかもしれないという不安があった。

だから、こうやって懺悔の文章を書いている。言語化を怠ってきたことへの懺悔と、決して逃げているのではなく慎重になっているだけだという弁解のつもりだ。

 

本を読めなくなっている。文字を書けなくなっている。

リアリティを感じられないような他者との交流だけを無限に求めて、どうしようもないと言って泣くことだけを繰り返している。

帰っておいで。

私を定義づけるならば、私の書いた言葉によってが良い。私が発する言葉でも、私の容姿でも、私は定義づけられたくなく、ただただ私が書く文章だけが私を定義づけて欲しい。それが一番私が私だと思っているものだから。

 

久しぶりにそのままの言葉を書いた。逃げるようにして口語を交えてみたり、ふざけた言葉を連ねたり、そういうことをしないのも久しぶりで気恥ずかしい。

一方で、やはり伝える努力はしておらず、私から生まれたままの言葉を書き連ねている。私は、結構意味を考えずに感覚だけで言葉を発する側面がある。伝わらなかったら読み取ってください。

 

 

おしまい

 

 

Lyrical school「Fantasy」


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