「すこやかのハンバーグたべて、すこやかなりた~い」
胸の中心にあるケロイドが、数年ぶりに赤みを帯びている。
緊急事態を知らせるランプのように、赤く、ひかっている。
すこやかになった。
同じところをぐるぐるとしている感もあり、おそらく大きく鬱がきたあとは、すべてを「どうでもいい」と思うことでどうにか精神を保つようにシステムが構築されている。
その時期が来た、螺旋だったらいいな、いいとかないか。
京大を受験するのをやめて阪大を受験することにした時も、似たような感覚だった気がする。
「がんばりきれない」というと涙が出てきたりもするが、別に悲しくはないよ。
自分がなれたらかっこいいな、とか、できたらかっこいいな、とか、そういう憧れや承認のために成し遂げたいすべてのことを求めないことにした。
つらいから。つらい気持ちになりながら、生きていたくないから。
感じられるものを増やしたり、できることを増やしたりする努力はやめないようにしようとおもう。自分のペースで。
見たことがないものを見るのは「好き」だし、知らないことを知るのは「好き」だし、わからないことをわかるのは「好き」だから。
大きく変わったようでいて、多くの人がそう生きているのをやっと私もできるようになる、というタイプの変化だと思う。
「みんなができることをできるようになるためにがんばる期間なので、最初っからできるあんたらは黙っといてもらっていいですか?」
「なんか疲れちゃったんですかね」と毎回少し失礼なカウンセラーの人から言われた。
彼女はなぜカウンセラーをやれているかわからないほどホスピタリティがないのだが、そのあっけらかんとした態度が回を増すごとに嫌いではなくなっていった。
なんか疲れちゃったんですかね。自分の大きさの身体を動かす程度であれば疲れないのかなって、ふと『水星の魔女』を思い出しながら。
ずっと自分より大きな機械を動かそうとしていて、一歩も動かなかった。
疲れた、とかじゃ、ないと思います。
とても苦しい時と、すこやかになれた時は、毎回記事が残っている。
前にすこやかになった時の記事を見ると、まだまだ苦しみに繋がりそうな要素が見つかって、「まだまだだな」とか言ってみる。
すこやかになったから、記事を書いている。
「まだまだ」、かもしれない。