「未来ちゃんには無理だよ」という漫画のタイトルに引きづられて、「-ちゃんには無理だよ」という言葉が頭に浮かぶ。
「でも、やっぱりむりだよ」
何を信仰するか問われて、自分が救われないものを信仰する人なんていないと思いませんか。だから。
「私が悪い」とわかっていることを、「私が悪い」から「私のせいで」私が苦しんでいることを、誰も救えない。
責める言葉はすべて嘘でしかない、自傷、あなたを介して私を傷つける。あなたはただ巻き込まれている。
話したあとで要約される、あたしのことばが訳される
もうあたしのことばじゃないのに、でも、あたしってそんなことでしかないのかも
問われてる あなたから見られている私
ほんとうにほんとうにほんたうにうけいれらんない。ごめん。
「訳されている」と思った。奪われていると思った。こういうことに執着する性質が、幼さを表していることだけは十分にわかっていて、私はそれでもそれをやめられない。
繰り返し唱える。
正統化されなくとも、私の感情を殺す必要はない、私の感情を劣ったものする必要はない。
私を幼さから解放し大人にする手ほどきをする人間が存在してよいこと、それが痛みを伴うものであっても通過儀礼だとして耐えるべきであること、そうであるとしても、それは、公的な場で行われればいい、と思っている。
「大人なんだから」という説教にさらされたくないの、わがまま。
幼さのシェルターにならない、感情のシェルターにならない、のであれば、他に逃げ場を探す、しかない。逃げる。
「私にはむりだよ」
逃げる。私が私のことを嫌いなだけで、それは良くも悪くもどうにもならないことなんだ、って笑って見せる。
泣いてしまうことだけが嘘を伝えている。