スマホの充電器のコードが消えた。忽然と。
多分、今さっきまでバッグの中にあったのに。どこを見つけてもない。全然ない。
1回目ないとわかった時はあんまり状況が受け入れられなくて、なんだか独り言を15分ぐらい言ってたけど、2回目改めてないとわかった時に事の重大さに気づきめちゃくちゃ探した。
でも、ない。
最悪だ。本当に最悪だ。
充電はあと3%。私はここで、「充電器探すキャス配信したら楽しそうじゃね?」というあほみたいな思考をして、キャスを始めた。
しかし、必死の大捜索むなしく、ベッドの下の状況を見るため写真を撮った瞬間に電池が切れた。
↑カメラロールに残されたその時の写真
この瞬間、私のiPhoneは「鉄の塊」になった。
充電が切れるたびに思ってしまう。これは「鉄の塊」なのだと。
そして、そのたびに悲しくなってしまう。私は、このような「鉄の塊」に人生を溶かし、日々を預けてしまっているのかと。
「iPhone」という物質は確実にそこにあるが、それは決してiPhoneではない。
そんな奇妙な状況に、気持ち悪さと軽い興奮を覚える。
とはいえ、人間も同じようなものだと思う。
私たち人間だって、結局は「肉の塊」なのだ。死体になった私は、おそらく私ではないのだろう。
話が少しそれてしまった。話を戻すが、私にとってiPhoneが使い物にならないことは大変な問題である。
まず、なにより明日のアラームがかけられない。朝が弱い私は、目覚まし時計のアラームにももう慣れてしまい聞こえないうえに、1時間のうちに5分おきにアラームが鳴らないと起きることができない体になっているため、「iPhoneが使えない=起きたい時間に起きることができない」のである。
つまりは、iPhoneが復活するまで私は寝ることができない。
そして、私はiPhoneを通じてしか人とつながれない。もし自分の住むマンションの住人と交流していれば、横の部屋の住人のインターフォンを鳴らし充電器を借りることだってできたかもしれない。
しかし、私はネット上にしかつながりがないし、ネット上にしか言葉を吐けない。iPhoneがないと私は完全に「孤立」してしまうのだ。
というわけで、踏ん切りがつきコードをコンビニに買いに行くことにした。暗いうちは外に出るのが怖いので、録画していた番組(ytv漫才新人賞選考会)を見ていて日の出を待った。
日が出て外が明るくなる。「コンビニに行こう」2時間前にした決心が少し揺らぐ。
また、私はあのiPhoneに囚われた人生に戻らなければならないのか。
このままiPhoneがない生活の方が幸せなのではないか。
自問自答しながら、コンビニに向かう。
向かう途中で右ポケットに重みを感じ見てみたら、「鉄の塊」が入っていた。
もう駄目だと思った。いつもの流れでポケットに入れてきてしまっている。
ただの「おもり」でしかないのに。もう、私にとって「おまもり」のようになってしまっているのかもしれない。
イヤホンをつけて携帯を見ながらでは感じれない外の環境。
セミのうるさい鳴き声。ミミズの死体や犬の糞に群がる虫。散歩するおじいさんやおばあさん。
こんなもんなら、別に現実なんか見えなくてもいいかと思った。別に、現実だからってなんでもかんでも綺麗なわけでもない。
というか、おじいさんとおばあさんが多すぎる。5時台の外の世界の平均年齢が高すぎる。
「小さい頃は夜だったのに、年をとればとるほど朝になるのはな~んだ?」というなぞなぞがあるならば、確実にその答えは「5時台」だ。
そんなことを思っているとコンビニにつく。この時間にコードを買いに行って、「あっ、こいつ昨日コード失くして夜を鉄の塊とともに明かしたのかな?」と店員さんに思われたらどうしようとか考えていたが杞憂だった。
夜勤のおばさんが、そんなことを考えられるほどに頭が回ってるはずがないのだ。
そして、ついにコードを手に入れた。貧乏性なので、純正のではなくちょっと安いパチモンのを買った。
家に帰れば、また「鉄の塊」に支配される生活が始まる。そして、その支配を私自身が生み出そうとしている。
もう、きっとダメなのだ。もうきっとダメだけど、私はその生活でしか生きていけないのだ。
いつか、なくしたと思ったコードもひょっこり出てくるだろう。
その時は、そのコードで首をつって死んでしまおう。
それは、私の囚われた生活の象徴であり現実への諦めの表出でもある。
「鉄の塊」に命を送るそれは、「肉の塊」の命を奪うのだ!
なーんてさ。そんなアボガド6の絵みたいなことしないんだよ。
文明の利器は使ってなんぼでしょ。
iPhone使って生き続けて、5時台を朝にしないといけない。
明日をまた、生きないといけない。
というわけで、おやすみなさい。
アラームを11時~12時に5分刻みにかけて、今日はもう眠ろうと思います。
ぐっない🌙